オリンピック関連の建設物というと競技場を思い浮かべますが、開催中に選手が滞在する選手村も重要な施設です。選手村には選手だけでなくコーチなど関係者が宿泊するため、広い敷地が必要となります。
今回は、1964年と2020年の東京オリンピックの選手村について、場所や規模、その後の使い道について比較しました。
1964年の選手村の場所、規模、その後
前回、1964年の東京オリンピックの選手村は、現在の代々木公園の場所に作られていました。これ以外に八王子・相模湖・大磯・軽井沢などに分村が作られ、競技によってはそちらの選手村が利用されました。
所在地:東京都渋谷区代々木神園町
規模:総敷地面積66万㎡、収容人数5,900人
宿舎:(木造住宅)249棟543戸、(鉄筋アパート)4階建て14棟 など
開村:1964年9月15日
閉村:1964年11月5日
元々この場所は、江戸時代には大名や旗本などの武家屋敷がありましたが、明治終わり頃には陸軍の練兵場(代々木練兵場)となりました。
第二次世界大戦後には連合国側に接収され、アメリカ軍将校家族宿舎ワシントンハイツが建設されました。広大な敷地内には住居だけでなく、学校や教会、劇場などの娯楽施設や診療所もありましたが、周囲を塀で囲われて日本人が立ち入ることはできなかったそうです。
1961年、東京オリンピックではワシントンハイツに選手村や競技場などオリンピック関連施設を建設することが決まり、1964年、同敷地のすべてを日本に返還されました。
選手村の宿舎はワシントンハイツの住居が改修して利用されましたが、オリンピック終了後に公園として再整備されることが決まっていたため、食堂などは仮設のものでした。
現在、オランダ選手の宿舎であった一戸のみが代々木公園内に保存されています。
オリンピック終了後、選手村があった場所は再整備されて1967年に代々木公園として開園しました。公園内には選手村があったことを示す「TOKYO1964」と五輪マークの記念碑が設置されています。
選手村内にあった集合住宅は再改修され、オリンピック記念青少年総合センターとなりました。社会教育の一環である宿泊施設として利用されていましたが、老朽化が進み現在では建て替えられているようです。
2020年の選手村の場所、規模、その後の使い道
2020年の東京オリンピックの選手村は、前回に比べると選手や関係者が増えたことからさらに広大な敷地が必要となります。そこで、都は東京のウォーターフロントと呼ばれる埋立地の晴海を選手村の用地として準備しました。
所在地:東京都中央区晴海5丁目
規模:総敷地面積44ヘクタール、収容人数1万7,000人
宿舎:14~17階建て22棟 ほか
選手村の住宅棟として中層の建物を選手の宿泊施設として建設する予定です。
大会中は選手が一時使用し、オリンピック・パラリンピック開催後には分譲・賃貸マンションとして民間住宅に再開発する計画です。
住宅棟は中層のものが殆どですが、超高層タワーとなる50階建てが大会終了後に2棟建設される計画となっているようです。総戸数は約6,000戸です。
他には4階建ての商業棟が1棟、小学校も建設される計画となっており将来人口は1万から1万2,000人程度となる見通しです。これは人口が急激に増え過ぎることによって、学校などの基礎的な行政インフラに支障が出てくることから中央区から都に要請があったからだそうです。
エリア内には水素ステーションを整備、次世代型燃料電池(水素と空気中の酸素を反応させ、発電するシステム)を商業棟と再開発する住宅共用部に設置するほか、分譲棟の各住戸には家庭用燃料電池(エネファーム)を設置する計画もあります。
水素を利用することから、上下水道に加えて水素パイプラインもライフラインとして建設される予定です。
まとめ
1964年開催時の選手村は、オリンピック後に再整備されて代々木公園となりました。しかし、最近では再整備して住宅地として転用されることが多くなり、2020年開催での選手村も大会後は分譲・賃貸マンションとして再整備される計画です。
環境にも配慮した新しい都市は多くの人の注目を集めるでしょう。
以上、「東京オリンピックの選手村 1964年と2020年の違いを比較」でした。
Yoshida
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